自由は不自由

今年は年明けに「マグロに賭ける男たち」のMAがあったために、正月返上で仕込みをしていた。もともと正月はあまり好きでないので、大して苦にもならなず仕込んでた。年末のTHE追跡から「ザワつく!」〜マグロと続いた年を跨いだ特番ラッシュもひと段落、今、遅れている3枚目のCDの制作に取り掛かっている。

普段テレビの仕事をしていると、音楽は必ず映像に合わせるわけで、その合わせるための条件はなかなか多い、つまり縛りがキツいんだな。
番組全体の流れの中でニュアンスを掴み、どの程度のテンポの音楽がいいのか、楽器はどんな楽器がいいのかなどを考える。そしてそのあとに楽曲のメロディー、コード進行、などを決めていくので、迷ったら、つけてる映像にたちもどればいい。縛りがきつければ自由度が減るのでその観点から見れば、意外と楽な部分もあるのだ。

と思うようになったのは、個人のアルバム制作をするようになったからだ。今制作しているのはSF小説を題材にした3枚目のアルバム。
1枚目がブライアン・オールディスの「地球の長い午後」、
2枚目はフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
そして今回はジェームス・グレアム・バラードの短編作品を題材にしている。(SFシリーズはこれで最後にする)

普段、縛りのきつい仕事をしているので、当初、個人のアルバムは自由に作れると喜んでいたのだが、いざ作って見ると拠り所のなさでなかなか曲作りが進まない。表現したい世界がなければ何も浮かんでこないわけだ。そんなわけでイメージの起爆剤としてSF小説を選んだわけ。

いわゆるアーティストは世の中の決まりごとに縛られることなく、自己の内的な世界を自分の方法で表現していくのだが、問題はその「内的な自己の世界」である。
その「内的な自己の世界」を確立するための勉強みたいなもの、世界を見る目線、耳線、感覚線を普段から鍛えてないと、その人なりのフィルターはできない。できなければ、「自己の内的な世界」などできるわけはないわけだ。自由に書けといわれて喜んでいるのは、制作に入る前の空想の世界のことで、いざ制作に入れば、その不自由さにもがき苦しむのだ。作曲の世界を見渡しても、技量はすごいんだけど、表現している世界はなんだかなぁ、と言った作品によく出会う。

僕のCDのプロデューサー川端潤がいつも「俺は100年後の音楽を聴いてみたい」と言っているんだけど、最近僕もそんなことを想像しながら曲を作っている。

誰も聴いたことのない「音楽」。

まずは自分の目や耳で世界を感じて、それを自己の中に取り込み、独自の表現世界を作り上げないとなぁ、などと思いつつ楽曲制作に勤しむ今日この頃。週末には今までも協力してくれてるマリンちゃんが歌合わせにやってくる。

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