レトルトミュージック

前回のブログの出だしは「コロナが止まらない」だった。
そして今ようやくコロナウイルスの勢いも衰えたのか、みるみると感染者の数が減ってきた。
このまま二桁くらいで推移して行ってくれればいいよね。

先週の土曜日は緊急事態宣言も解除ということで近所のイタリアンRondineに行った。いつもアルバムが出るとチラシを置いてくれたり、拡散してくれたりと、とてもお世話になっているお店なのだが、前回訪れたのがいつだったのか、その記憶さえない。店のオーナーご夫婦はお元気で久しぶりにヴォーノなイタリアンを楽しんだ。

でもって翌日は駒澤大学でラーメン屋さんを営んでいた友達のヒロさんが食材と調理道具を持って自転車でやってきた。ヒロさんはもうすぐ70歳ということもあって店を若い世代に譲って引退したんだけど、隠居生活も長くは続かず今度は出張料理人に変身したのだ。
というわけでプロデューサーの川端さんとその奥様で歌手のマリンちゃんを呼んでパーティーと相成った。
料理人のヒロさんはとにかく本が大好きで自分でも文章書くし、そのテーマはマルクスから古墳やヤクザ映画、ロックミュージックととにかく守備範囲の広いインテリだ。

そんな彼と話をしていてふと気がついたことがあったので備忘録として残しておくことにした。

それは、最近みんな料理を作らなくなったよね、みたいなところから始まった。そう、最近は料理をこだわって作る人とあまり料理を作らない人に別れてきて、なぜ作らない人が増えたかというと、作らないでもそこそこのものができちゃう商品が増えたということに突き当たるわけ。スーパーでチンジャオルースーの素を買ってきて牛肉とピーマン炒めればそこそこのものができるし、豆乳鍋の素買ってきてやさいや肉を入れれば美味しい豆乳鍋がすぐに出来上がる。肉も下味のついたものを買ってくればただ焼くだけでイタリアンにも和食にも変身する。まぁそれさえ面倒臭ければレトルトのカレーやコンビニのお弁当で毎日生活できてしまうわけで。

その話をしていた時に、あっ、音楽もまさにそんな感じだなと思ったのだった。特にコンピュータで音楽作る場合、サンプリングされた音源の充実さ、それにワンクリックでベースとなるリズムパターンは無数にあるし、ギターに至ってはコードでジャカジャカ弾いてくれたり、それはもう至れに尽せりなのだ。最近は民族音楽の素材や笙や琴、尺八とか、まあよくもここまで商品化するものだと感心してしまう。
そういう商品、当然必要とされるから存在するわけで、それもそれなりの需要がなければ商売として出てこない。

と考えていくとさっきの料理の話とも共通する分母があることが見えてくる。それはとにかく「手軽」で「手早く」、でも出来上がりはなんとなく「本物志向」。ゲーム音楽やYoutube、TikTokの動画など、音楽の需要は日々高まっているけど、予算はない、でも音楽のクオリティーはそれなりなものをくださいな.....ということだ。
テレビやアニメの予算は一部の作品を除けば減る一方だし、テレビだって既存のテレビ局以外にWoWowやNetflixを始めいろんなところで独自企画の番組作ってる、でも番組のその後の展開を考えると選曲ではなく作曲がいいし.....。
そんなわけで、お金はかけたくないけど短時間で作れるクオリティーの高い楽曲の需要がやたらと増えるわけだ。
僕のところにもよくこういう楽曲の作曲依頼の電話がかかってくる。

こういうフィールドで仕事をしだすと作曲家は消耗戦の連続になって、音楽は「コンビニ」に並ぶレトルト商品になってしまい「防腐剤」たくさん入れた楽曲ばかり作ることになってしまう。もちろん作曲家も食べてかなきゃいけないんだけどね。

結局、創造的なことをやろうとすると、社会との距離をほどほどに保たないとダメなわけで、僕は最近その辺りのことがようやく見えてきた歳になりました。

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